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更新日:2017年7月24日

「machiko」2010年1月号

machiko1月号に掲載された、茨城県知事のインタビュー記事です。

茨城県知事 橋本昌

日本のこれからを支えていける茨城にしたい

知事というお立場で16年にわたって県政を引っ張ってこられ、昨年9月に5期目の任期がスタートしました。先の知事選の時、「ところで、橋本さんって、どんな方なのかな」と知人のあいだで話題になりました。今日はそのあたりのお話を。お生まれは、東海村でしたね。

知事の写真

ええ、毎日、魚獲りや昆虫採集など、外で遊ぶのに大忙しの子どもでしたね。知事として仕事をすることなど想像もしていなかったし、それどころか、将来の夢など考える間もないくらい、遊びで忙しかったですよ(笑)。

今の姿からは想像もつかないでしょうが、小学生の頃は、背が高いほうで、駆け足には自信があったんです。小学校6年間のなかで、運動会のリレーもほとんどトップでした。

東京大学のご出身ですが、やはり、子どもの頃から勉強のほうも・・・。

子どもたちの見本にならないかもしれませんが、あまり勉強をしていたという記憶がないんですよ。小学生の時は、漫画もほとんどのものは読んでいました。中学の時は、私立(茨城中学校)に電車で通っていたのですが、終業時に簡単なテストがあったんです。終わった順に帰っていいよ、と先生が言うので、早く電車に乗りたいものだから、夢中で問題を解いて、ささっと提出して下校するんです。集中して勉強したっていえるかどうかわかりませんが、そんな記憶しかないですね、勉強に関しては。むしろ、担任の先生の人柄が大好きで、だから学校が楽しかった。今でもお付き合いさせていただいていて、よく一緒にお酒を飲んだりしていますよ。

子どもの頃の出会いが今も生きているというのは素敵ですね。

6年生のときの担任の先生もエネルギッシュな方でした。この間の知事選挙でも、ふんどしの代わりに、このベルトを締めて頑張れと、ベルトを贈ってくれました。

小さな小学校だったので、みんな家族みたいなものでしたね。90人くらいで2クラス編成。同級生の親御さんはみんな私を知っていたし、私の母も私の同級生のほとんどを知っていました。そういう時代です。煩わしいということはなくて、「何となく見てるよ」という感覚というか、みんなでそういう環境を作っているというものがありました。あの頃の環境はとても恵まれていたと思いますね。

ご両親は、どんな方ですか。

父は学校の教師で、とても堅い人でした。頑固でしたよ(笑)。100歳になりますが、今も元気です。母は社交的で、PTAの活動や地域の婦人会の活動、自分で仕事を立ち上げたり、非常に人付き合いが上手な人でした。数年前に他界しましたが、今でもいろいろなところで「お母様とはね、・・・・」と声をかけられることが多いですよ。

両親ともに、無償の愛といいましょうか、家族というものを、どんなことがあろうと第一に考えているようなところがありましたね。それくらい、家族は温かい場所でした。

私などは、もう少しそういう父や母の後姿を見習わなければならないと常々思いますよ。だからでしょうね、初めて知事選に立候補するときには、父は反対でしたね(笑)。そうした家族のことを心配していたのかもしれません。

高校卒業後、郷里を離れるとき、どんな思いが去来したものですか。

1年浪人して、東大をめざすと決めて、東京へ出たものですから、家を離れることは淋しかったですけど、なかなか哀愁に浸っている余裕がなくて、とにかく、そういう機会を与えられたのだから、必ず、合格しなければならない、頑張りぬかなくてはいけない・・・そういう決断のときでした。

今から振り返ると、自分を大きく成長させてくれたのは、この予備校生活でしたね。同じ大学へ進んだ仲間がたくさんいましたから、今でも付き合いがあるんです。なにより、苦労をともにした仲間ですからね。

大学は法学部。卒業後、自治省へ入省されました。

仕事に就くという感覚はなかなか芽生えてなくて、進路を真剣に考え始めたのは3年生の頃からでした。それまでは、休みのたびに全国を旅行していました。周遊券を使っての電車の旅。ユースホステルなどを利用して、九州とか北海道とか、友だちと回りました。旅の魅力は、いろいろな人に会うこと、見たことない景色に出会うこと、知らない土地やその歴史に出会うこと。それが新鮮で、時間さえあれば、旅をしていました。

自治省に勤めて、山梨県の総務部長などの役職を経て、最初に「知事選」という話があったときは、どう感じられましたか。

当時の自民党の山口武平会長と関宗長副会長が東京までお越しになって、知事選への出馬の要請を受けた時には、人生の決断を迫られるものになりましたね。ただ、こうまでおっしゃっていただけるなら、やらなければならないだろうと心に決めていたところはありました。

知事の仕事というものは、山梨県の部長職を通じて見てきて、やりがいのあることはよくわかっていました。自分の地元でもありますから、思い切って決断しました。

ご家族の反応は、いかがでしたか。

女房には相談をしてはいなかったんです。車の中から携帯電話で「(自治省に)辞表を出すから」と伝えました。「私は、ついていくしかないですから」と承諾してくれました。

先に述べたように、父はあまり賛成ではなかったんですよ。父は公務員として県や公共の仕事をすることには大賛成でした。「弁護士や会計士になるよりは、公務員として公の仕事をしなさい」というのは、父が一貫して私に期待していたことでしたから。でも、政治家になるというと、父も不安だったのでしょう。反対しながらも、選挙戦になると、父は、私の知らないところで、教え子などに「息子を頼む」と電話をしてくれていたようです。

全国の都道府県知事としては、最多選の知事となりました。

今日は、人口減少時代、地域間競争の時代。このなかで茨城県が競争に負けないで、他の県より元気で、「茨城に住んでいてよかったな」と県民が誇れるような県にするために、これまでの16年間精一杯いろいろな種をまいてきましたから、5期目はいかにその花を咲かせるか、その段階に来たと思っています。

日本が世界のなかである程度の位置にいて、国民に豊かな生活を保障するためには、元気な県が外貨を稼げるような活動を展開していかなければなりません。そういう、日本のこれからを支えていける有力な県のひとつだと思っています。

県民の皆さんに喜んでいただけるような県に、そして日本の未来を支える役割を果たせるような県にしていきたいですね。

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