最終更新日:平成15年9月19日
茨城県神栖町(現神栖市)のヒ素汚染による健康被害について
1 経緯
平成15年3月17日に筑波付属病院神経内科の石井医師から潮来保健所に対し,「神栖町の住民3名が続けて同じような症状を呈しており,同病集積の原因として飲料水の水質汚染が可能性として考えられるので,飲料水の水質検査をお願いしたい。」との依頼があった。保健所で調査したところ,患者の居住する戸建て集合住宅には他にも同様の症状を有する居住者がおり,また,これらの者が共同して使用する飲用井戸(以下「A井戸」という。)の水から4.5mg/ リットルという高濃度のヒ素が検出された。そこで,茨城県ではこれらの症状の原因について原因物質の特定含め調査を行った。
2 原因究明調査
(1) 住民健康調査
@ A井戸水飲用者の健康調査(別紙2)
A井戸のある住宅は,神栖町木崎地区の平成2年頃に建設された8戸からなる戸建ての集合住宅で,平成8年以降においては,調査で明らかになった範囲で12世帯計36名が居住したことがあり,うち3名は死亡し,1名は消息不明であることから,残り32名について今回の健康調査の対象とした。なお,現在は6世帯12名が居住している。 これ以外に,6世帯16名が平成7年4月以降に転居しており,消息について調査中である。
a 自覚症状
32名中18名について神経系を中心とする26項目の自覚症状を調査したところ,「立ちくらみ・ふらつき」(57%),「歩きにくい・歩けない」(46%),「手がふるえる」(54%),「手・足に力が入らない」(50%),「身体が非常に疲れる」(54%),などであり,症状は比較的均質で小脳症状を疑わせるものであった(別紙1,2)。その他に,「下痢」「便秘」や「動悸」などの症状も見られた。症状出現時期は早い者で平成11年からであり,多くは平成13年〜平成14年であった。
b 井戸水摂取状況と症状
32名中30名がA井戸の水を飲用していた。井戸水を飲用していない2名については,自覚症状が見られなかった。
症状については,少なくとも12名が転居,入院等により飲用を中止すると比較的短期間(1〜2週間)に症状が軽快・消失する一方,一部は退院等で再飲用すると比較的短期間に増悪した。また,飲用水をA井戸から水道水に切り換えて以後,現居住者についても症状の改善が見られる。
c ヒ素測定
32名中12名の毛髪についてヒ素を測定したところ,A井戸の水を飲用していた11名について1.35ppm〜8.71ppmのヒ素が検出され,日本人の一般的な値である0.05ppm〜0.1ppmより高い。
また,29名について4月19日に尿中のヒ素を測定したところ,10名についてジフェニルアルシン酸が検出された。
d 臨床医学的診察
32名中協力が得られた27名について,飲用水をA井戸から水道水に切り換えて約4週間が経過した4月19日に神経内科専門医及び皮膚科専門医による診察を行った。その結果,6歳以上の27名のうち,共同運動障害,運動緩慢等の協調運動障害が10名,起立歩行障害が5名,姿勢時振戦又はミオクローヌスが8名に見られた。皮膚科学的には,有意な所見は明らかでなかった。
他方,5歳以下の2名については,1名は妊娠中から母親が井戸水を飲用し,1名は出生後入居したものであるが,診察の結果いずれも発育や言語の遅れが認められた。
e 血液検査等
20人が6月7日に一般健康審査を受診した。結果は,脂質高値15名,肝機能高値5名,貧血4名,高血圧2名,血糖高値1名であった。
A 井戸水から比較的高濃度のヒ素を検出した住宅居住者(別紙3)
後述するように,A井戸の西方約1kmの位置(B地点)において互いに50m以内に近接する11世帯の住宅でそれぞれの飲用水から,0.1mg/リットル以上のヒ素が検出された。さらに,A井戸とB地点の中間地点においても1世帯から0.1mg/リットル以上の比較的高濃度のヒ素が検出された。
a 自覚症状
これらの住宅においても,神経系を中心とする26項目の自覚症状を調査したところ,一部に症状を訴える者が認められたが,A井戸水飲用者のようにいくつかの症状がそろった者は見られなかった。3名に流死産がみられた。
b ヒ素判定
12世帯44名中36名について,5月3日に尿中のジフェニルアルシン化合物を測定したところ,17名についてジフェニルアルシン化合物が検出された。
c 臨床医学的診察
36名について5月3日に神経内科専門医及び皮膚科専門医による診察を行った。その結果,6歳以上の27名のうち,共同運動障害側方注視時振戦等の協調運動障害が4名に見られ,うち2名に姿勢時振戦が見られた。皮膚科学的には,有意な所見はなかった。
B 周辺住民健康調査(別紙1)
A井戸の概ね半径300m以内の88世帯184名について,飲用水の使用区分並びに神経系を中心とする26項目の自覚症状を調査した。
(2) 環境調査
@ 動植物の状況
保健所の聞き取り調査により,A井戸の水を飲用したことがある11世帯のうち,5世帯において「犬が死亡した。」「植物が枯れた。」などの動植物の異常が認められた。B地点では,1世帯で「小鳥が死んだ。」ことがあった。
A 井戸水水質検査
a ヒ素検査
A井戸について46項目の水質検査調査を行ったところ,45項目では異常が認められなかったが,ヒ素の検査で4.5mg/リットルという基準値の450倍のヒ素が検出された。また,前述のように,A井戸から西方約1kmに位置する11世帯(B地点)の井戸水からも0.1mg/リットルを超える(0.14〜0.43mg/リットル)比較的高濃度のヒ素を検出した。さらに,A井戸とB地点の中間地点においても1世帯から0.13mg/リットルの比較的高濃度のヒ素が検出された。
これらを含め,旧神栖町内において6月25日までに検査した4325件の飲用井戸水のうち529件(12.2%)において,基準値の0.01mg/リットルを超えるヒ素が検出され,うちA井戸,B地点及びその中間地点の13件で0.1mg/リットルを超えるヒ素が検出されている。
b ヒ素の分析
A井戸の飲用井戸水からジフェニルアルシン化合物が4.7〜7.4mg/リットル(ヒ素換算値1.3〜2.1mg/リットル)検出され,そのほとんどはジフェニルアルシン酸として存在し,ビス(ジフェニルアルシン)オキサイドも検出された。B地点の飲用井戸水からもジフェニルアルシン化合物が 0.33〜0.82mg/リットル(ヒ素換算値0.10〜0.23mg/リットル)が検出された。A井戸,B地点を含めこの周辺部で18カ所の井戸からジフェニルアルシン化合物が検出されている。
また,A井戸は,一部から最高1.1mg/リットルのフェニルアルソン化合物が検出される一方,無機ヒ素はほとんど検出されなかった。
なお,旧日本軍で製造された嘔吐剤であるジフェニルクロロアルシン,ジフェニルシアノアルシンの代表的な分解産物で,しかも分解物としてはジフェニルアルシン酸の前駆物質ともいえるビス(ジフェニルアルシン)オキサイドが検出されたことから,旧日本軍で製造された嘔吐剤による汚染の可能性が懸念される。
3 健康被害の原因物質
(1) 症状とA井戸水の飲用との関係
A井戸の水を飲用し神経系に関する自覚調査を行った28名については,その周辺に居住して井戸水を飲用していた者に比し症状の出現率が高く,事件が報道されてから調査を行ったことによる影響も考えられるが,症状の集積が認められる(別紙1)。他方,同じ集合住宅に居住しA井戸の水を飲用しなかった者は2名のみであるが,症状は認められない。
A井戸の水の科学分析ではヒ素のみが高濃度で認められた。ヒ素の曝露量は居住期間にもよるが,濃度としては概ね曝露が多いと考えられる別紙1表中の左側の欄ほど症状出現率が高く量・反応関係が考えられ,バイアスを考慮する必要があるが「歩きにくい・歩けない」「手がふるえる」などの項目がχ2検定で有意であり(自由度=4,p<0.01,χ2>13.3),性別・年齢別にも同様の傾向が見られた。
さらに,当該井戸の水の開始・中止と症状の増悪・改善には,比較的短期間における密接な関係が認められる。これらのことから,集合住宅居住者の症状は当該井戸水の飲用によるものと考える。
(2) A井戸の水の原因物質について
A井戸及びB地点の井戸水のヒ素分析では,ヒ素のかなりの部分がジフェニルアルシン化合物であったと考えられる。居住者の井戸水摂取量を1日2リットルと仮定すると,居住者は毎日約6mg以上のジフェニルアルシン化合物を摂取していたと考えられる。ジフェニルアルシン化合物のマウスの経口投与での半数致死量が体重(kg)当たり17mg(ヒ素換算値で4.9mg)であるとの報告があり,感受性に種差はあるが60kgのヒトに換算すると300mgになることから,数週間の曝露による亜急性発症を考え得る。他方,フェニルアルソン化合物については,一部井戸水から検出されたが,その50%致死量は体重(kg)当たりマウスで260μg,ウサギで16mgとの報告があり,ヒトへの毒性がジフェニルアルシン化合物より強い場合,少量でもその影響は無視できない。
これまでジフェニルアルシン酸によるヒトの中毒の報告はないが,フェニル基を同様に有する構造をもち飼料添加物として用いられるフェニルアルソン化合物では,ブタや家禽の中毒で起立歩行障害,運動失調が認められ,また数日で大部分が排泄され,これはA井戸の水を飲用していたものはジフェニルアルシン化合物等に数年間曝露していたと考えられ,また井戸水引用中止後概ね症状は改善傾向にあるが,年余を経過しても残存するものもあることから,亜急性の発症を繰り返し後遺症が残存していると考えられる。
これらの所見と疫学調査の結果を総合的に判断すると,A井戸の水を飲用していた者の症状の主な原因物質はジフェニルアルシン化合物又はその類似の化合物であると考えられる。
4 被害の広がり
(1) 小児の症状
中毒の病像については,成人では比較的短期間で改善する一方,乳幼児や胎児曝露では成人と病像が異なりより重症である可能性があり,後遺症も懸念され,また学童についても発達状況のフォローが必要である。
(2) B地点の居住者の症状
B地点の居住者には神経学的異常所見はあるが,ジフェニルアルシン化合物との因果関係は不明であり,今後とも検討を要する。A井戸の水を飲用した者に比べ自覚症状や神経学的所見が見られないのは,ヒ素の曝露量が少なかったことなどが原因と推定される。
(3) 周辺地区住民の症状
周辺居住者についても一部に飲用井戸水中のヒ素が基準値を超え,井戸水飲用者は水道水飲用者に比べ自覚症状の出現率が高い(別紙1)こと等から,被害の広がりについて更に分析,究明する必要がある。
(参考) 今後の課題
- ジフェニルアルシン化合物を含む井戸水を飲用していた者の健康管理
- ジフェニルアルシン化合物などの毒性学的検索についての研究
- ジフェニルアルシン化合物による健康被害の広がりについての疫学的調査
