とくがわ・なりあき

徳川斉昭

1800-1860
第9代水戸藩主。天保の藩政改革を行い、黒船来航、通商条約締結の困難な時代に幕政改革にまで意欲を示す。

天保期の藩政改革

徳川斉昭 大洗町 幕末と明治の博物館所蔵 徳川斉昭は第8代藩主斉修(なりのぶ)の弟。兄が子を残さず没したために藩主となった。30歳にして部屋住みの身から一転して藩主に就任した斉昭は、改革派である下級・中級藩士を登用して、門閥派の反抗にあいながらもただちに藩政改革をはじめた。
天保期(1830-43年)はどこの藩でも財政が破綻していた。農村は度重なる飢饉と圧政に苦しみ、藩という秩序の枠組みが揺らいでいた。斉昭は尊皇の思想によって藩権力を強化し、儒教の愛民政策によって農村を回復しようとした。
斉昭の行った改革の代表的なものに「全領検地」がある。検地は年貢を増額するために行われるのが常だが、斉昭の検地は農地の境界を明確にし農民の間にある年貢の不公平を改めることにあったといわれる。
全領検地のほかにも、家臣を地方に土着させて耕作させるとともに、武備を強化した。これは一揆などに備えるだけでなく、異国船に備えるためでもあった。
学校の開設による文武奨励も改革の目玉だった。弘道館は水戸城下に開校された藩校であるが(1841年仮開校)、広大な敷地を有し、江戸後期に設立された藩校としては最も有名である。また大学の医学部に相当する医学館が弘道館内に設立(1843年)されたことは特筆に値する。
しかし、改革の行き過ぎと藩内の抗争を嫌う幕府から致仕謹慎を命じられ、藩主の座は長子の慶篤(よしあつ:藩主在任1844-68年)に移された。

安政期の改革

斉昭の謹慎は半年後に早々に解かれた(1844年)。しかし藩政へ参与する許可を得たのは5年後のことである(1849年)。ペリーの来航(1853年)後は、幕府の海防参与にも就任した。しかし混迷する幕府の中で3年後には辞任している。
斉昭の海防計画は、水戸藩では盛んに行われた。天保期に続く安政期の改革の目玉は軍備の充実であり、苦しい藩財政の中にあっても、すでに天保期の改革の時点で助川村(現日立市)では海防基地となる海防館(城)の建設(1841年)、砲台の建築、農兵の組織作りなどが始められていた。安政期には、那珂湊(現ひたちなか市)に鉄をつくる反射炉を築造し(1856年)、大砲を鋳造した。また軍艦朝日丸を建造し、兵制も砲隊と銃隊を中心とする洋式兵制を取り入れた。

安政の大獄

1858年7月、斉昭は再び幕府の処分をうける。政局は将軍継嗣問題と日米通商条約をめぐって混迷を深めていた。次期将軍候補には2人おり、1人は斉昭の7男で一橋家の養子となっていた一橋慶喜(よしのぶ:第15代将軍徳川慶喜)であった。
継嗣問題も条約調印問題も進展のないままだったが、彦根藩主井伊直弼(いい・なおすけ)が大老となったことで(1858年3月)急転直下、断が下されていった。6月に条約調印を断行、徳川慶福(第14代将軍家茂:いえもち)を継嗣とすることを発表。そして翌年の安政の大獄(1859年)によって、斉昭は水戸での永蟄居を命じられたのである。
翌1860年3月、桜田門外の変により井伊直弼没。同年8月、斉昭は水戸城中で急逝した。斉昭の諡(おくりな・死後に贈られる尊称)は烈公。烈しい個性と生涯であった。

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