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更新日:2015年11月25日

いばらきの川紹介_いばらきの川と常陸国風土記(第2回)

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「いばらきの川」の紹介


○第2回いばらきの川と常陸国風土記(H23年4月6日)

 

 
風土記は,風土記撰進の官命(和銅6年,713)により,諸国の国司がそれぞれの立場で編纂し,「解」(げ)(下級官司から上級官司に差し出す公文書)として差し出したものです。
官命では,次のことを記すこととされています。

・郡郷の名に(漢字二字)好い字をつける。
・郡内の銀銅・草木・禽獣・魚虫など鉱産物や動植物の目録を作成する。
・土地の地味,肥沃の状態を報告する。
・山川原野の地名の由来を記す。
・古老の伝える旧聞異事をまとめる。

現存のものは,五風土記(常陸,播磨,出雲,豊後,肥前)で,常陸国風土記の編纂者は,藤原朝臣宇合(うまかい)(藤原鎌足の子不比等(ふひと)の第三子,常陸国司)とする説が定説となりつつあります。
霞ヶ浦がかつては,「流海」といわれる海水が逆流する内海であり,海苔や魚介類がとれ,製塩が行われていたことや霞ヶ浦,山田川の水辺で古代人が歌をうたい,憩い楽しむ姿などがわかります。
ここに,常陸国風土記に記されているいばらきの川を紹介します。

1霞ヶ浦
(1)信太(しだ)の郡(乗浜の村-稲敷市)
「倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)(日本武尊)が海辺を巡幸されて,乗浜までゆかれた。ときに,浜浦の上に,多くの海苔がほしてあった。この為に,能理波麻の村といった。」
(2)茨城(うばらき)の郡(高浜-石岡市)
「元来この高浜の土地は,春の花の咲く好い時期や,秋の紅葉の散りおちる涼しい気候の時は,土地の人は車にのって向い,舟にのって,舟遊びをするところである。………」
(3)行方の郡
・行方の海
「郡家の西に渡船場がある。いわゆる行方の海である。海松また塩を焼く藻が生ずる。凡て海にある種々の魚については,記載することができないほど多い。但し,鯨は昔から見聞したことがない。」
・香澄(かすみ)の里
「………海には,すなわち,青い波が漂っており,陸には,これまた,赤色の霞がたなびいている。国がその中にあると私の目には見える。………」

2恋瀬川
茨城の郡,信筑川(しづくがわ)
「………信筑の川という。水源は筑波の山から出て,西から東に流れる。郡の中を通って高浜の海に流入する。………」

恋瀬川と筑波山(石岡市)



3梶無川
行方の郡,梶無川・鴨野
「………その岡からおりて,大益河(おおやがは)にいでまし,小舟にのって上られるとき,棹梶(さおかじ)が折れた。その為,その河の名を無梶河といっている。………」

4那珂川(粟河)
那珂の郡,粟河・曝井(さらしい)
「………郡家から東北の方,粟河を挟んで駅家をおいた。そこから東の方に当たって,泉の坂の中ほどから湧き出る。………」

5玉川
久慈の郡,静織(しどり)の里
「………この村の北に小川がある。赤い石が混ざっている。色は琥珀に似ていて,火打ち石に使うともっともよい。それで玉川と呼んでいる。」

6山田川
久慈郡,山田の里
「………そこを流れている清い河は,源を北の山に発して,郡家の近くを南に通って久慈川に合流する。この河から年魚(あゆ)がたくさんとれる。腕ぐらいの大きさである。………夏の暑い日,遠里近郷より暑さをさけ,涼しさを求めてやってくる。そして,筑波の雅曲をうたったり,久慈の美酒を飲んだりする。これは,人間の遊びとは申せ,全く俗世間の煩わしさを忘れることができる。………」

7宮田川
久慈の郡,助川の駅家(うまや)
「………国司の久米大夫の時になって,河から大きな鮭をとる為に,名を改めて
助川と名づけた。」(鮭の親を須介(すけ)とよんでいる。)

ここで、参考までに、「常陸国風土記」に表されている「常陸」と「茨城」の由来について紹介します。
「常陸」とは、直通(ひたみち)つまり「ひたつづきの道で、一路通うことができる」の意と、「倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)(日本武尊)の衣の袖が泉に垂れて濡れたので「袖をひたす」の意が「ひたち」に転じたとしています。
また、「茨城」とは、茨城の郡の地名の由来として、昔、国巣(クズ)や佐伯(サエキ)など土着の人々が地面に穴を掘って住んでおり、大和から来た軍勢や役人の食糧などを盗み、敵対していたので、黒坂命(くろさかのみこと)が野バラであるウバラを穴に入れて滅ぼしたこと、また、砦をウバラで囲み(ウバラ城)、敵の攻撃を防いだことから「茨城」と呼ぶようになったとあります。
また、常陸国は、「常世(とこよ)国」として次のように紹介されています。
「そもそも、常陸の国は、面積が広大で、地域もはるかに遠く、土地は肥沃であり、原野は豊かで平である。新たに開発したところは、海の幸、野の幸が豊富であって、人々は安楽に満足し、家々は富み豊饒である。もし、その人が農耕に努力し、力を養蚕につくす者があるならば、すぐに富裕になり、自然に貧しさから逃れることができる。・・・・・・、いうならば海陸の宝庫、物産の楽土である。昔の人が、「常世の国」といったのは、もしかするとこの常陸の国ではないかと疑われる。・・・・・・」


出典:「口語常陸国風土記ーその歴史と文学」






 
 
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