第2章 普通選挙がやってきた(大正時代〜戦前)

 日露戦争後、生活の向上や、それまでの藩閥政治に対抗して政治的自由を求める人々の動きが全国的に活発になっていきます。そして徐々に「政党」が政界で大きな力を持つようになりました。

 そのような中、大正7年(1918年)には「平民宰相」とも呼ばれた政友会の原敬内閣が誕生し、日本もいよいよ本格的な政党政治時代の幕開けを迎えました。

 そして、この流れは地方にも浸透し、茨城県でも当時の二大政党、政友会と憲政会の対立が持ち込まれ、政友会系の知事と、与党政友会に対する憲政会の対立ははげしく、たとえば大正8年の県会などは、憲政会系の議員がことごとく県執行部と政友会派に抵抗するなど波乱に富んだ県会運営がみられました。

 当時の選挙権、被選挙権は財産その他による資格の制限がありましたが、大正期には国民の政治的関心が高まり、普通選挙を求める声が大きくなります。

 そして大正14年(1925年)3月、普通選挙法が可決成立しました。

 この法律により25歳の男子すべてに選挙権が与えられた結果、茨城県の有権者数はそれまでのほぼ2倍に増加します。

 普通選挙法施行後初の選挙となった昭和2年(1927年)の県会議員選挙は、無産政党からも立候補者が出るなど多彩な選挙となりました。


 昭和4年(1929年)に始まる世界大恐慌は、県民の生活にも深刻な影響を与えました。政府や茨城県もその対策に苦慮しました。このころ、大正期からの政党政治に対する批判も、強くなっていきます。

 経済不況からの脱出は、海外への軍事的経済的進出によってしか打開できないという、軍国主義の主張と軍靴の足音が高まり、大正デモクラシーの民主的空気をかき消していきました。

 昭和7年の五・一五事件、昭和11年の二・二六事件は、社会に軍国主義の風潮を広めることになり、日中戦争へと突入していきます。それにともない、当時の県会の議論にも「銃後の支え、これでよいのか」という調子のものが次第に多くなっていきました。

 そして昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が勃発。社会は戦時色一色にぬりつぶされ、茨城県会も、昭和14年9月の選挙後は欠員を補充するだけで選挙は行われず、戦争に協力する「翼賛議会」となりました。

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