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更新日:2018年9月14日

#03 海のそばで暮らす|海と山の間を歩く

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海と山の間を歩く

写真家・松本美枝子さんによる連載「海と山の間を歩く」

西に多賀山地を控え、東には太平洋が広がる、日立市。日本3大銅山であった日立鉱山が開かれ、その地質の恵みを礎に、世界最先端の鉱工業で発展を遂げてきた。鉱山が閉じて約40年。海と山に囲まれた豊かな自然の中で、この街の歴史と暮らし、そして今を生きる人々を知りたい。それを探す小さな旅のエッセイ。

河原子海岸のこと

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日立市・河原子海水浴場

自分の話になるが、昨年、東京で写真展を開いた(「ここがどこだか、知っている。」主催/会場:ガーディアン・ガーデン〔東京都中央区〕(外部サイトへリンク))。自然や環境、あるいは社会の変化と、それに伴う人間の心の揺れをテーマに、写真や映像の作品を展示した。主に2011年以降、自然と社会が大きく変わるたびに起こるさまざまな事象と、それに影響される人間の戸惑いに直面し、それを何か形にしたかったのである。

その展覧会の少し前から、気になる地形を観察し、撮影していた。例えば地震のような自然災害によって、地形や町並みが大きく変化することがある。それをできるだけ冷静に観察し、記録することで、災害や人災に対する人間の心の揺れを少しは減らすことができるかもしれない、と思ったからだ。以来、今でも撮影を続けているのが、地層や海岸線など地形の変化の痕跡だ。

私が撮影を続けている場所の一つ、日立市にある河原子海岸は、環境省による『快水浴場百選』にも選定された、白い砂浜が広がる海水浴場だ。海沿いの遊歩道から砂浜へと続く緩やかな階段の前に、波打ち際まで数10メートルほど続いていた広い砂浜があった。しかし2011年の東日本大震災が原因と思われる海底の変化によって、階段前の砂浜のほとんどが海に沈んでしまった。

河原子海岸がすっかり変わってしまったのを、最初に私に教えてくれたのは、友人で、日立市在住の書家、小野千帆(ちほ)さんだった。千帆さんは海岸からほど近いところに、家族とともに住んでいる。海のすぐそばで育った千帆さんは、海が好きで海水浴や散歩を欠かさない人だった。私も2010年の夏までは千帆さんと一緒に、河原子海岸に出かけては泳いだり、写真を撮ったりしたものだった。

震災からしばらく経ったある日、「河原子海岸は、びっくりするくらい変わってしまったんだよ」と千帆さんが私に教えてくれた。あの広い砂浜は、海に沈んで消えてしまった。海沿いの道路を車で走ると、すぐそばに海が迫って見えるから怖い。震災の後、一度だけお母さんと海を見に行って以来、ずっと河原子海岸には行ってない、と千帆さんは言うのだった。

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海が好きな家族

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千帆さんは、母で、やはり書家の小室李谿(りけい)先生とともに、結婚後も実家の書道教室を切り盛りしている。千帆さんにとって李谿先生はお母さんであると同時に書の師匠であり、そして家長でもあるのかもしれない。大学で電子工学の研究をしていた千帆さんのお父さんは、若くして癌で亡くなっているからだ。李谿先生は書道教室をしながら、二人の娘を育てた。

 

李谿先生は私にとっても友達のお母さんである前に、書家であり、フリーランスの大先輩みたいな存在である。いつもすてきな着物やワンピースを着こなして出迎えてくれる李谿先生は、私のことを娘の友達というよりは、同じアーティストの一人として扱ってくれるので、お話するのが楽しいのだ。

いま千帆さんは書道教室で小中学生たち、そして夜、仕事を終えてからやってくる20〜30代の大人たちに書を教えている。一方、李谿先生は、長く習いに来ているベテランの人たちや、師範の資格を持つ人、師範を目指す人に指導しているのだ。

その李谿先生も、あの震災までは海が大好きだったのを、私は知っている。娘の千帆さんと同じようにしょっちゅう、砂浜を散歩し、60歳の半ばを過ぎても娘や孫たちと毎年必ず海水浴に行っていた。その年代で海水浴を楽しむ女性は、私の周りには誰もいなかった。李谿先生は本当に海が好きなんだな、私も李谿先生のようにいつまでも海水浴を続けよう、とまで思っていた。だけど震災以降、娘と同じように、ぱたりと海に行くのをやめてしまった。

去年、二人に家族アルバムを見せてもらう機会があった。

ページをめくると、旅先や季節の記念写真に混じって、河原子海岸で撮ったスナップ写真もたくさんあった。元気だったお父さんが李谿先生を夜の砂浜で撮った写真。まだ幼い姉妹が海で遊ぶ写真。大人になった姉妹と李谿先生の3人だけで砂浜で撮った写真もある。

一枚一枚めくりながら「今考えると私たちにとって海は平和な時の象徴だったのかもしれないわね、砂浜もこんなに広がっていたのね」と李谿先生はつぶやいた。

こんなにも家族の日常の中にあった近所の海に、もう6年以上も行くことができないなんて、その心境の変化は、一体なんなのだろうか。地震のせいだ、津波のせいだ、震災後に起こった原発事故に端を発する、さまざまなことのせいだ、と口に出して説明するのは多分、簡単だ。でも、本当のところは本人たちもうまく言えないことなのかもしれない。だけど、その心の内をなんとか知りたいと、去年の今頃の私は考えていたのだった。

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小室家の家族アルバムから作った作品「手のひらからこぼれる砂のように」(松本美枝子 2017年作)

河原子海岸の変化

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河原子海岸の防潮堤

それから私は時々、二人が行かなくなってしまった河原子海岸に、一人で撮影に行くようになった。東日本大震災では茨城県の海岸線にも津波が到達し、多くの被害が出た。犠牲者が出たところもあった。

日立は高いところで4メートルほどの津波にさらされた。震災後には河原子海岸に防潮堤も築かれた。白い防潮堤に阻まれて、海岸に接する道路からは、かつてのように海が広がる風景を見ることはできない。それでも見晴らしに配慮してのことなのだろうか、防潮堤にはところどころ、小さな窓があって、窓越しに海を覗くことができる。

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防潮堤を越えて、海水浴場の遊歩道へと出る。以前はその先に砂浜が広がっていた、階段の淵に降り立つ。今では階段の下の段には常に波が打ち付けられている。

 

足元のすぐ先は、おそらく水深2、3メートル以上にもなる海だ。海底が地盤沈下したためだといわれている。以前はここに腰掛けて、ずっと先の波打ち際を眺めたりしたものだったけれど、もうそんなことはできない。私たちの足が波に浸かるくらいだった浅瀬には、今では小さな漁船が入って来ることさえあるのだ。

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地形がここまで大きく変わったのを見たのは、初めてかもしれない。ぞっとすると同時に、一瞬で地盤をここまで変容させる地球の大きな力に、不思議な気持ちにもなった。私たち人間にとっては大きな出来事かもしれないが、これは、はるか昔に地球の歴史が始まって以来、当たり前のように繰り返し続いてきたことの一つに過ぎないのだ。

 

一人で河原子海岸に行ってきては、そんな話を小室家の人々にするうちに、やがてみんなでもう一度あの海に行ってみようか、という話になったのだった。私が二人を強く誘ったのもある。

連れ立って夕方の河原子海岸へ行くと、二人は、防波堤を見上げて、「いつの間にかこんな大きな防潮堤ができていたんだね」といった。

「階段は降りたくないな、怖いから」千帆さんはそう言って、遊歩道沿いに李谿先生と一緒に腰掛け、しばらく並んで6年ぶりの海を見ていた。そして新しくできた海の端に残っている小さくなった砂浜をこわごわと歩き、言葉少なに、また帰ってきたのであった。

再び、海を見に行く

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書家の小室李谿さん(右)と小野千帆さん(左)。かつての砂浜の前で。

それが1年前の夏の出来事である。時間が経つにつれ、もしかして私はあの時、二人に無理なことをさせてしまったのかもしれないなあ、と思うようになった。

久々に千帆さんの家に行って、そんな話をすると「そんなことはないよ。あの時、こわごわだけど、現実はこうなっちゃったんだ、とちゃんと確認できてよかったよ。もし二人だけで行ってたら、悲しくなかったかもしれないけど、みんなで行ったから悲しくならなかったし」と千帆さんは言った。李谿先生も「現実を肯定しないと生きていけないからね。あの時、一緒に行って、見て、よかったわ」と言ってくれた。

そして1年ぶりに、今年の夏もまた3人で海を見に行ってきたのであった。河原子海岸は去年とそんなには変わっていない。少し変わったことといえば、津波による影響なのだろうか、階段が大きく崩れているところがあるのだが、そのあたりにロープが張られていたことだ。ここは波が迫り、常に海水がたまっていることで、藻や貝類がびっしりと生息し、とても滑りやすくなっている。私もこれまで何度か撮影中に転んで怪我もした。何より滑って海に落ちる危険もある。立ち入り禁止、ということなのだろう。

私がそんなことを話してる間も、やはり二人は去年と変わらず言葉少なに、しばらく海を見つめているだけだった。大好きだった海、風景が変わっていくことに対して、人間にはなすすべがない。私も、ただ海岸線や人々の様子を観察して、写真を撮ることしかできないし、それ以上の答えは、今年も結局、見つからなかった。

海を見てから、書道教室に戻って千帆さんが書を書くのを見せてもらうことにした。「あの日、震災の時も今と同じように、墨をすっていた。そうしたら大きな地震が来た」と千帆さんがいう。その後、千帆さん一家はお姉さん一家が住む牛久市に避難した。日立に戻ってからも、生徒が再び集まり書道教室を再開するようになるまで、しばらく時間がかかった。

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千帆さんは日々子供たちに書を教える中で、必ず決まった時間を作って、自分の書の鍛錬を行っている。一つの課題を何度も書いては見比べながら、より良い習作ができ上がるまで10枚、20枚と書き続けていく。そして最後に「これは」と思う習作を、李谿先生に見てもらい、指導を受ける。指導の間は親子といえども、互いに敬語だ。

 

見ているこちらも背筋を伸ばさなければいけないような、しんとした時間の中、床に広げた大きな半紙に向かって、千帆さんは黙々と草書の和歌を書いていく。やがていくつか選んだものを李谿先生のもとに持って行った。

かつて海が日常の中の癒しとして常にあったように、二人にとっては書を書き続ける、という静かで厳しい時間が、暮らしの中に常にあるのだ。

「でもこれは作品というより、書の基本であって、例えるなら筋トレのようなものだから」と千帆さんは言う。そして「若いときは、負の感情から制作のモチベーションが上がることが多かったけれど」と続けた。

これからは何もない平穏な時にこそ、最良の作品が書けるような人間になれればいい、今はこの筋トレを続けながら、そういう作品を作れるやり方を構築中なんだ、と千帆さんは言った。

それはもしかしたら、いつか千帆さんにとって、海の代わりのようなものになるのかもしれないな、と私は聞きながら思った。

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