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更新日:2019年1月28日

青い傘の“軌跡”|“クリスト”という事件 #02

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“クリスト”という事件

里美の真ん中で地域づくりに懸命に取り組む岡崎靖さんは、20年前に里美にきた移住者だ。クリストが里美で青い傘を開かせていたとき、天の邪鬼な性分の岡崎さんは里美に足を運ばなかった。クリストを直接知らないからこそ、“クリスト”という事件を客観的に振り返ることができるんじゃないか。里美にとって“クリスト”とは何だったのか。地域とアートとの幸せな関係とは。記録を探り、そこに暮らすひとへの聞き取りから、ヒントが浮かび上がってくるかもしれない。(編集部・中岡)

クリストはアンブレラプロジェクトを日本で実現するにあたって、茨城県常陸太田市の町屋から里美村・陣場までの谷あい19㎞の田園をキャンバスにしたのは、なぜだろう。リアルタイムにこのプロジェクトを体験することができなかった私は、里美に移住して以来、そのことが引っかかっていた。国内にはクリストのプロジェクトに協力したい自治体もあっただろう。あるいは、里美が他と差別化できるほど特別な風景をもっているわけではない。それこそ“絵になる”土地は他にいくらでもありそうなものだ。それでもなぜ里美だったのだろうか。

そんな疑問を抱きながら、私はクリストが残していった記録集をめくっていた。すると、そのなかに、当時里美村の職員であった須藤泰孝さんの姿が飛び込んできた。須藤さんは、クリストたちが傘を立てる場所を決めるくい打ちを手伝った職員のひとり。記録集に残る写真には、クリストたちと楽しそうにくい打ちをする須藤さんの姿があった。また、プロジェクト実現のための許認可を取るべく、会議で苦渋の表情を見せる写真が記録集に収録されていた。

開催当時38歳、バリバリの中堅職員だった須藤さんは何を思ってこの作業に関わっていたのか。現在は「常陸秋そば」の栽培などを通して地域の元気づくり活動をしている任意団体「美しい里づくり委員会」で事務局長を務めている須藤さんに、話を聞いた。

クリストが里美を会場に選んだ理由

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当時の資料を懐かしむ須藤さん

 

「自分は、里美に来てくれた彼らの手伝いをしたかっただけでした」

 

そう話す須藤さん。クリストのパートナーであるジャンヌ=クロードの周囲への気配りや、構想のイメージ通りに次々と杭を打っていくクリストに驚いたことを、30年近く前の記憶を振り返りながら話してくれた。

残念ながら、須藤さんがこのプロジェクトの担当だったのは、準備期間までだった。村長交代をきっかけに担当課メンバーが総入れ替えになってしまったため、開催年の平成3年度には担当からは外れてしまったという。その後はいちファンとしてプロジェクトを見守っていった。傘の設置中と開催期間中の2回、アメリカ・カルフォルニアの会場へも足を伸ばした。

里美在住で当時のことをよく知る熱心なクリスト・ファンという先入観でインタビューをしたものの、その事実に少し拍子抜けしてしまった。しかし、里美が開催地になった当時のことを知る須藤さんにこそ聞いてみたい質問があった。クリストが、なぜ里美を会場に選んだのかということだ。須藤さんは、静かにこう答えてくれた。

 

クリストと行政の想いには乖離があったと感じています。クリストは、自分の想いを作品としてただ形にしたかっただけでした。一方で、地元はこのプロジェクトを地域振興の起爆剤に利用したかったのだと思います。クリストがこの場所を会場に選んだのは、クリストの構想に条件があったからです。それは、東京から2時間弱の近さ、交通量が少なく展示期間中の交通渋滞の心配がない、田舎の原風景が残っている。この条件がクリアできれば他の場所でも良かったのだと思います」

 

クリストが里美を選んだ理由は、端的に言えば「開催するための条件にあっていた」ということだった。必ずしも、当初から里美の美しさにべた惚れしていたわけではない。須藤さんからは、アンブレラが里美で開催されたことと地域振興を重ねるコメントは出て来ることはなかった。

しかし、ここにこそ注目すべきことがあると思う。それは、アーティスト側の独断でこの場所を選んだ、ということだ。自治体や企業からの要望で開催地を決めていたら、アーティストは自由に作品をつくれない。芸術家にとって、とくにクリストにとっては、芸術とは自由な状況下においてのみ、成り立ちうるのかもしれない。思えば、このプロジェクトを実現するための資金はすべて彼個人のものである。

 

“シャングリラ” 陣場

一方で、ジャンヌ=クロードは里美村・陣場地区のことを“シャングリラ”(理想郷)と呼び、当初からとても気に入っていたという。会場選定の基準も陣場と比べてどうかということを常に念頭に置いていたほどだった。そこまで陣場にこだわったのはなぜだろう。

陣場に住む石川武さんは、敷地内の離れ屋敷をクリストが現地で活動する際の事務所として提供した。提供を申し出たのは石川さんのお母さん。

当時の話を聴くと、石川さんは仕事に忙殺される日々で、あまり対応できず、代わりにプロジェクトチームの世話は石川さんのお母さんがしていたという。チームが滞在中は家族の世話をするように、早朝から朝ごはんをつくって、事務所まで運んでいった。チームにとって、本当のおばあさんのような存在だった。

石川さんが、居間の奥から1枚の写真を持ってきてくれた。農作業中のお母さんと一緒にクリストが写っている。この後に石川さん宅の空き家を現地事務所として提供することになる。

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クリストと石川武さんのお母さん 石川武さん提供

アンブレラが開いたころ、お母さんは体調を崩し入院していた。忙しいのにもかかわらず、クリストは3回も見舞ってくれた。彼のやさしさが今も忘れられないという。彼らの交流は、プロジェクトが終了するまで続いた。

構想の実現のために日本各地を視察し、様々な条件をクリアできると判断。壮大なキャンバスを里美に決めたクリスト。

世界的に有名なアーティストが、プロジェクトの場所に里美を選んだことは、地域の人々にとっての誇りとなり自慢の一つにもなった。しかし、それは観光振興による経済効果につなげることへの企みとは別の次元のものであるように思う。里美を望んだクリストと、クリストを受け入れた里美。両者のめぐりあいは、とても奇跡的なことだったのだ。

 

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