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更新日:2019年12月10日

#05 農民による農民のための用水路は、世界へ |連載:クリエイティブのフィールドワーク

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クリエイティブのフィールドワーク

関東の最北端。茨城県の北部地域6市町を舞台にした連載『クリエイティブのフィールドワーク』。フィールドワークとは、文字通りフィールドつまりは現地に入り、各々が “ある視点” に基づいて、物事の仔細を見聞き体験し、机上だけでは決して分からない、“視点”と“対象”を結ぶ地脈を全体的に理解しようとする行為。今回の連載では、映像作家である筆者が、いちクリエイターとしての視点から、何に興味が湧き、何に可能性を感じ、何に学びを得たのかを書き残し、茨城県北地域にクリエイティブの火種を見つけていく。

今からちょうど、350年前の1669年といえば、江戸時代の初期にあたるだろうか。その年、現在の北茨城市のとある地域で、農民自らの計画と建設により、用水路ができた。水源に乏しく、生活に困窮していた農民たちは、ひたすらに豊かさを求め、信じられないほどの短工期と、当初想定していた約10分の1の費用で難工事を成し遂げる。この偉業を称えた領主が、用水路と共に作られた新田にかかる税を免除し、その収穫高が約十石だったことから、この用水路は以降、「十石堀」と名付けられ、なんと現在も使用されている。そして、建設から350年が経った今年、十石堀は「世界かんがい施設遺産」に登録されることになった。遺産とはいえ、現在も使用されている用水路であることに興味が湧き、先祖代々この地に住み、現在では「十石堀維持管理協議会」の会長を務める鈴木さんと、元会長の小林さんに話を聞きながら、実際に現地を歩いてみた。

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当初は、鈴木さんと小林さんに市役所で話を聞き、その後は自分たちで現地を歩いてみるという予定だったが、話を聞けば聞くほどに興味が湧き、こちらの興奮が伝わったのか、お二人で現地をガイドしてくださることになった。10月に入り、めっきり日は短くなった。「なるべく全部見たいです!」というこちらの無理な要望に、じゃあ急がなきゃな、と小林さんの少々ワイルドな運転に連れられて、山間部深くに潜っていく。到底、自分たちではたどり着けないであろう場所に到着し、車を降りた途端、せせらぎの音に包まれた。

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左が小林さん、右が鈴木さん。

農民の知恵というブリコラージュ

鈴木さん、小林さんと十石堀の水脈をなぞりながら、話を聞く。森の新鮮な空気、せせらぎの音、そして山地を歩くリズムがとても心地よく、市役所の会議室で聞くよりも、良いインタビューができそうだ。世界かんがい施設遺産に登録された事実は素晴らしいことだが、その背景が知りたくて取材に来たことを伝えると、小林さんがこちらの意図をすばやく察知して、こう切り出す。

(小林さん)「今回のポイントはですね、農民の知恵による事業ということなんです。水源がなかったわけなので、当時の人たちは非常に貧しい生活を送っていました。その証拠に、ここらは長屋門がないでしょう。それだけ大きな屋敷がなかったということで。ですから、必死の思いで用水路を作ったんだと思うんです。そして、お金がないものだから、知恵を使えということで、農民の知恵を最大限に活かして、不可能を可能にしたんですね」

不可能を可能にする農民の知恵、大変に興味深いが、まず世界かんがい施設遺産に登録された経緯を聞く。

(小林さん)「はじめに、私どもの方で、世界かんがい施設遺産というのがあることを知ってですね、正直言って私なんかは“世界遺産”なんて言葉にドキンとなりましてね(笑)それじゃあ後先考えずにやってみようじゃないかということで、維持管理協議会の臨時総会で、十石堀に関わる日棚、粟野、松井地区の三地区異議なしということになりまして。まぁ、ぶっちゃけると、“世界遺産”という言葉が魅力的だったんですよね。ただ、申請の1回目はあえなく見送りになったんです。それで他の候補地を視察に行きましたけど、もう全然勝負にならないくらいの規模なんですよ。いやぁたまげちゃって。完全に“世界遺産”という言葉に踊らされて、土俵に上がってみたら、みんな横綱なんですよ(笑)これは、ちゃんと作戦を考えなきゃなということで、十石堀の価値というものを真剣に議論し始めたんです。加えて、外国の審査員が見て驚嘆するような内容でなくては申請は通らない。申請当時は私が会長でしたから、いろいろと調べてみたところ、“農民の知恵”というキーワードが見えてきて、それを2回目の申請の際には全面に押し出したことで、めでたく登録されることになったんですね」

実に人間くさいエピソードを明け透けに語る小林さんに、とても親近感が湧く。隣の現会長である鈴木さんも、ふふふと笑う。では、農民の知恵とは具体的にどういったところなのだろうか。

(小林さん)「まず、当初200両はかかるだろうという見積もりを26両でやったという記録がありまして、あるものでやるという手弁当の精神ですよね(笑)加えて、半年で切り開くというのは、並みの労力ではないですよ。古文書記録にも抜けている部分があるので、推測しなければならない点も多いのですが、この辺の硬い花崗岩をL字に切ったなんてのも驚きで、一説には火を燃やしてから、水をかけて冷やして一気に風化させて削ったと言われています。あとは、測量の方法ですね。山の中は見通しが良くないですから、竹を割って自前の水平器を作ったようです。また、十石堀は嘘のように真っ直ぐなんです。それも不思議でね」

(鈴木さん)「昔だから、今の人なんかよりも山の中に入ってたんですよね。生活の中で山を使ってたから、感覚的に分かってた部分があったんじゃないかなぁ」

(小林さん)「それと、水を防ぐ場合は俵というのが一般的なんですが、あれだと目が粗いので都合悪いんですね。そこで、田んぼの畦などを作るのに使っていた、かます(わらむしろを二つ折りにした袋)を利用したみたいで、それだと土が流れないんですね」

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V字になっている掘割は、もともと山を削ってできたもの。人力で山を削るとは、想像を絶する労力だろう。

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いかにも固そうな花崗岩。

あるものでなんとかする。この言葉を聞いたとき、まさに「ブリコラージュ」だなと思った。古来より人類が生活のなかで獲得してきた叡智「野生の思考」に着目し、広く展開したことで有名な文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、世界各地に見られる本来の用途とは違うが、当面の必要性を補う道具やその方法を「ブリコラージュ」と呼んだ。私たちは日頃、お金と引き換えに“与えられたもの”を使いこなすことには長けているが、そこにあるものでなんとかする、言い換えれば、創造的な生産の精神にはひどく乏しい。小林さんは「貧しかったからでしょうねぇ」と言う。だが、経済的な尺度とは違った観点から見ると、豊かさという言葉は適さないにせよ、あるものでなんとかするというブリコラージュ的方法には、人間生活の根源的な脈動が聞こえてくる。かつての農民たちが生活の中から紡いだ知恵は、十石堀という形になり、今も北茨城の山中に残されている。

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ずっと揉め事がない理由

水は大切なライフラインであり、生活資源だ。水道の蛇口をひねれば、すぐに水を得ることができる現代においても、ひとたび災害になれば、それが露呈する。たとえば、今年の秋に相次いで日本列島を襲った大型台風の際にも、まず最初にコンビニからミネラルウォーターがなくなった。つまりは、水の争奪戦が起こるわけだ。

(小林さん)「昔から、水の取り合いで斬り合いになるくらい、どこの村でも水の配分にはトラブルが付きものと言われてますが、十石堀から水を引く、日棚、粟野、松井の3地域間では、ずっと揉め事がなかったんです。不思議だなぁと思ってましてね。そうしたら、数年前に調査をした際に、田んぼの面積に応じて分水されるように計算されていることが分かったんです。必要な分が必要なところに流れるように。これは、すごいなぁと」

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これは、地域間でのトラブルを避けるという点においても、農民の知恵と経験が活かされたということだろうか。ハード面だけでなく、ソフト面においても知恵の配慮が行き届いていることに驚きを隠せない。もしかしたら、領主の命により実施された事業であったら、こうはならなかったかもしれない。水の取り合いにより、戦になれば、それこそ多くの人命も失われただろう。

また、粟野と日棚という別々の地域にそれぞれ住む、鈴木さんと小林さんの関係にも、そういった争いを避けるための配慮があるように感じられた。小林さんは、世界かんがい施設遺産の登録の際に、維持管理協議会の会長であったから、当然その経験、そして過程においての調査で、十石堀に関しての知識が豊富。そして、何よりお喋りが上手い。一方の鈴木さんは、つい先日、会長に就任したところで、かつ寡黙な人柄。しかし、小林さんは、あくまで会長は鈴木さんなので、という前提を欠かさない。考えすぎかもしれないが、こうした良好な人間関係を保つための微々たる配慮は、十石堀が育んだものなのかもしれない。

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十石堀のおかげで生きてこれた

一通り山中を歩き、十石堀の主要な箇所を見せていただいた。すっかり日も暮れようとしている。予定をはるかに上回り、普段は行かないという場所にも連れて行ってくださったおかげで、資料だけでは知ることのできなかった、十石堀の魅力に少し迫ることができた。そしてやはり、長年守り続けてきた地域の生活資産である十石堀が、世界的な機関によって認められたというのは、誇らしいことなんだろうと思う。

(鈴木さん)「まぁ、でも私たちというよりは、ご先祖さまですよ、すごいのは。ご先祖さまの苦労が称えられたと思っています」

(小林さん)「でも実はね、わたしの父親なんて、(十石堀に)行きたがらなかったんですよ。それだけ、維持管理のための検分やら作業やらが大変だったんですよね。当時は今よりも道幅が狭かったですし、そこにコンクリートなどの資材を担いで登っていくわけですから。高校生くらいから私も参加させられるようになってね、それはそれはしんどかったですよ」

岩を砕き、山を切り拓くほどの気力と、それを成し遂げる知恵を駆使したご先祖はもちろん、やはりそれを維持管理してきた後世の人々にも苦労があった。小林さんは続けて、50年ほど前の印象的なエピソードを聞かせてくれた。

(小林さん)「この辺りは石炭が取れるということで、かなり大規模に炭鉱事業が行われたんですね。それでやっぱり、大きく掘れば地盤は沈みますよね。そして、井戸の水が枯れてしまった。まだ水道がない時代でしたから、生活には井戸水を使ってたんですね。なので、私たちみんな十石掘の水を飲みましたね。その時は助かりましたね、それで生きてこれたのかなって思います」

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石炭のかけら。

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取材した時間が遅かったゆえに、刻一刻と闇が覆いかぶさる黄昏時の山中は、かつての農民たちの息遣いが聞こえてくるような雰囲気さえも漂っていた。小林さんの話がますますのリアリティを帯び、まるで350年前の山中にタイムスリップしたようだ。僕はつねづね、体験だけでなく情報にも奥深さがあると思っている。もちろん、その奥深さ、奥にある何かに本当の面白みが隠されているわけだが、残念ながら現代では、全てがフラットで平面的な体験や情報が、手に取りやすいように陳列されていることが多い。今回、鈴木さんと小林さんによるガイド、そして語りに連れられて、十石堀を流れる山水のせせらぎを辿りながら、山中奥深く進んでいったこと自体が、そういった意味で、奥深さに触れる体験であり情報だった。そして、まだまだ茨城県北にはこういったことが、人知れずひっそりと、でも確かに在るに違いない。

 

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文・写真   山根晋

 

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