ホーム > 茨城県の各部局の業務案内 > 政策企画部 > 本庁 > 県北振興局 > ケンポクの記事 > 陶芸家・沼田智也さん|そこにある土と対話しながら器をつくる(前編)“土を掘って練って成形して、薪を集めてきて窯に入れ、それが器になって人々の生活に入っていく。 できることならこれをやりたい”
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更新日:2018年3月19日
東は海に、西は山に挟まれた高萩市。この地で陶芸を営む沼田智也さんのことを知ったのは、私が以前このウェブマガジンで取材・執筆した「ら麺はちに」に伺ったときのことでした。「はちに」の店内で陳列されている沼田さんの器に触れたとき、洗練され、都会的な雰囲気もありつつ、どこか懐かしい手触りを感じた記憶があります。店主の谷津喬史さんにお願いして電話で繋いでもらい、後日改めてアトリエに伺いました。 今回は前編として、現在のスタイルに行き着くまでの経緯を伺いました。 |
日立の高校を出て、一年浪人したあと京都の美大に入りました。日本画を4年専攻するなかで、現代美術に興味が移り、メディアアート専攻に編入しなおしたんです。編入したのが就活のタイミングだったので、インターンとして東京のデザイン会社に入りました。そこでプロジェクトを担当しているうちに、そのまま来ちゃったら?って誘われ、卒業後に入社しました。
そこでは一年間、ディレクターとして仕事をしました。具体的には某メーカーがつくる飲料のボトルキャップにくっついているフィギュアのディレクションです。プレゼンから運営まで、なんでもやりました。権利関係を調べ、どのキャラクターがいいかとか。一年会社にいたうちの2ヶ月は中国の工場で色見本を片手に品質管理もやりましたね。
楽しい仕事だったけど、やっていくうちに疑問が湧いてきました。クライアントが決める納期があり、予算がある。どうしたってそれに合わせる仕事になっていくんです。それに、ボトルのキャップなんて大切にしてもらえるのはせいぜい一ヶ月ぐらい。そういうものをつくってていいのかな、と。
幼馴染がいるんですが、ずっと仲良くて、会社員時代に部屋をシェアして一緒に住んでいたんですね。そいつが大学在学中にサークルで陶芸やっているうちにハマっちゃって、いったんは地方で就職していたんですが、結局東京に戻ってきて師匠のところに弟子入りしていたんですね。
おもしろいっていうので、ある休みの日に工房へ遊びに行ったんです。そのとき、どういうわけか師匠と意気投合して。おまえ窯焚きやるけど遊び来るかって誘われたので、仕事帰りに見に行きました。そのとき、度肝抜かれたんですよ、すっごい面白いなぁと。スーツの袖をまくって、ワクワクしながら薪を運びました。
土を掘って練って成形して、薪を集めてきて窯に入れ、それが器になって人々の生活に入っていく。
できることならこれをやりたい。
そう思って、弟子入りしたんです。
師匠のもとにいたのは一年間。「土練り八年」とか言うひともいるんですが、師匠はどんどん教えてくれました。覚えたらさっさと独立して出ていってくれって。
独立するには自分の穴窯(あながま)が必要です。穴窯をつくるためには土地が要る。自分の実家は農業をやっているので土地はある。ということで、ここ(高萩)に帰ってきて自分で窯をつくって独立したんです。
その頃は、兄弟弟子とふたりがかり、一週間かけて穴窯で焚くスタイルで器をつくっていました。このやりかただと当然コストがかかる。茶碗ひとつ、仮に3000円で売れたとしても赤字なんです。要するに採算が合わなかった。ぼくもその頃はなかなか尖っていたので、自分がいかに納得するものを作れるかにこだわりがあって。NPOでフルタイムの仕事をしたり、結婚式のスナップカメラマンをやったりしながら稼いだお金で食いつなぎつつ、妥協せずに自分が作りたいものをつくりたかった。結局、30歳ぐらいまで陶芸だけでは食えなかったんです。
勤めていたのはまちづくり関係のNPOでした。若手の陶芸家を支援する理由もあって、ぼくのことを雇用してくれたんですね。若いうちは情熱も体力もあるから、9時から仕事して、定時で上がってそこから制作する。年に2回、それぞれ一週間ぐらい有給休暇をもらって窯を焚いていました。そんな生活をずっとやってたんです。でも30歳をすぎると職務があがってくるし、体力的にもきびしくなって。もう二重生活は難しい。陶芸を続けていくとしたら、陶芸一本に集中していかないと続けられなくなると思ったんです。
師匠に教えてもらった「手びねり」という手法はろくろを使わずに成形するので時間がかかります。穴窯は焚き上がるまでに一週間以上かかる。そもそも、師匠はお茶道の道具をつくっていたんですね。ちょっと前の世代にはそういうものが高額で取引されるマーケットがあったんですけど、だんだん先細っていって。ぼくみたいな無名の新人はそのマーケットにはなかなか出ていけない。
一方で普段使いの食器というジャンルだと価格は落ちますが、おもしろいマーケットが広がっていると思ったんです。そこで勝負してみようと。そのためには釉薬の知識とかろくろの技術を身につけないと話になりません。
どうしようかと思って調べているうち、愛知の瀬戸に窯業のための専門学校があるのを見つけたんですね。学費は無料だし、ぼくはそれまで正社員で働いていたので、そこなら職業訓練の一環で生活費まで出してくれる。学びながら収入を得られるなんて、夢のようでした。
試験は2011年の3月初め。
一週間後に震災が起こったんですね。
手塩にかけて作った穴窯もぶっ壊れてしまいました。でも、いろいろ考えて、2011年の間は地元に戻らないで勉強しました。穴窯が壊れたことをポジティブにとらえれば、神様が「お前は地元に戻らないでもう一回勉強してこい」って言ってるのかなって。
一年間、いろいろなことを学びました。絵付けの授業があったんです。大学時代、日本画の勉強をしていたので平面に描くのは慣れているんですが、陶器に、となると全然違うんですよ。これは嫌だなぁーっと思っていました。
地元に帰ってきてすぐは手探りでした。とりあえず学校でやったことをおさらいしようといろいろ作ってみたんですね。つくったもののなかで、陶芸家の先輩とかギャラリーさんが絵付けの陶器に興味を持ってくれるようになったんです。「君がすべき仕事はこっちじゃないかな」と言われたら、そうですかねって。やっといまは絵付けの器メインでやっているんですけど。
最初は違和感しかなかったんですけど、評価され、求められるものを制作してゆくなかで、自分が作るべき器はこれだったんだなと、不思議と落ち着いてきたんですよね。
日本画を勉強して、メディアアートに編入し、ボトルキャップをつくり、陶芸と出会って、独立して挫折して、陶芸の基本を勉強し直して、いまここにいます。絵付けは日本画とつながっているし、何をするにもディレクターの視点を忘れていません。全部どこかでつながっている。でも、ビジョンがあったわけではありません。その都度いいと思ったように決断してきました。
(後編につづく)
「沼田智也 陶展」が静岡県三島市で開催されます。
株式会社三輪舎 代表取締役、編集者。1982年、茨城県ひたちなか市生まれ。県北との縁は、ほとんどの同級生が通う水戸を避けたかったために日立の高校に進学したことからはじまる。2014年、「暮らしのオルタナティブを発信する」をミッションに、出版社である株式会社三輪舎を設立。現在は横浜に拠点を置きつつ定期的に茨城に通っている。 |
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