昭和30年以降の高度経済成長期に建設された臨海工業地帯では、従来見受けられた特定の汚染物質による局所的で急性の影響と異なり、各種汚染物質による広域的で慢性の大気汚染が生じている。大気汚染による樹木被害を軽減するためには、どのように森林に被害が出ているかを把握し、適切な影響評価の方法を確立する必要がある。しかし、大気汚染と樹木被害に関する従来の研究は、高濃度に汚染された場合を想定した短期間のガス接触試験が多く、野外の樹木が低濃度の汚染物質にさらされた慢性的影響についての研究は乏しい。そのため野外の大気汚染が樹木に及ぼす影響の評価方法は確立されていない。
このようなことから、本研究は慢性的な大気汚染が樹木に及ぼす影響を野外で観察し、影響を評価するため、どのような方法が適切かを検討することを目的に行ったものである。野外での調査は太平洋に面した茨城県の鹿島臨海工業地帯において実施した。影響評価の方法として、いわゆる生態学的方法に基づき、植物自身が示す反応を植物計あるいは植物指標を利用して評価するため、以下の方法について検討した。
(1)主要汚染物質の樹木葉中含有量の分析
(2)植物計を利用した植物に対する大気汚染の影響評価
(3)植物指標による影響評価
(3.1)ソフトX線を利用したアカマツ年輪構造解析に基づく生長低下の評価
(3.2)クロマツ樹皮水抽出物の電気伝導度測定による降下ばいじん及び二酸化硫黄の影響評価
(3.3)アカマツ、クロマツ針葉煮沸液の濁度・電気伝導度測定に基づく、針葉の衰退程度の評価
(3.4)クロマツ針葉中カロテン含有量測定に基づく針葉の生理的変化の評価
この結果、各方法の利用可能性が明らかになり、それぞれの方法の特徴と長所及び短所を明確にすることができた。また、どの程度の汚染以上で、どの方法が良いか序列をつけることができた。
1.大気汚染の実態
調査地域とした鹿島臨海工業地帯は、人工の掘込港(鹿島港)とともに建設され、1970年に操業を開始し、鉄鋼業、石油化学工業及び電気事業(火力発電)等が行われている。これら工場のうち、降下ばいじん汚染に関しては、鉄鋼業の工場が、硫黄酸化物汚染に関しては、火力発電所と鉄鋼業の工場が、主要な汚染源になっており、両者は鹿島港入口周辺に位置している。
茨城県公害技術センターが観測した大気汚染測定結果によれば、二酸化硫黄日最高濃度は工場操業開始後上昇し、1973年にピークに達し、その後、低硫黄重油を使うようになった1976年以降、低下した。また、硫黄酸化物汚染度及び二酸化硫黄、オキシダント、一酸化窒素、二酸化窒素日最高濃度の合計値は、鹿島港入口の南西方向の地域で高い。降下ばいじん汚染は製鉄所を中心に工業地帯で高い傾向を示した。
大気汚染が樹木に及ぼす慢性的影響は、アカマツ針葉の変色、着葉量の減少あるいはケヤキの葉の変色として顕著に認められた。樹木の可視被害は、地域的には主に、主要汚染源の風下である鹿島港入口の南西方向で認められ、経年的には、工場の操業に伴う汚染の上昇とその後の低下に対応していた。
2.主要汚染物質の針葉中含有量
植物に対し毒性のあるガス状大気汚染物質のうち、硫黄酸化物は植物の同化器官に吸収され蓄績する。そのため、葉中の硫黄含有量を分析し、その量から汚染物質の影響程度が推定可能と考えられる。調査地域では硫黄酸化物汚染が生じているため、クロマツ、アカマツ針葉中の硫黄含有量を分析し、硫黄酸化物による影響を判定できるか否かを検討した。
分析の結果、クロマツ、アカマツ針葉中硫黄含有量は硫黄酸化物汚染の地域的な差異あるいは経年的変化と極めて明瞭な関係を示した。また硫黄含有量は、樹木で観察された大気汚染による障害の地域的な差異及び経年的変化とも良く対応していた。
以上の結果から、針葉中硫黄含有量の分析は、硫黄酸化物による大気汚染が樹木に及ぼす影響を評価する上で有効な方法であることが明らかとなった。
3.植物計による影響評価
本章においては、植物に対する大気汚染の影響を実験的に確かめる方法として、コケ及びポプラさし木苗を用いた植物計を利用し、大気汚染の影響を評価可能か否かを検討した。
3.1空気浄化試験法による蘚苔類の栽培装置(ブリオメーター)を利用した影響評価
浄化空気と非浄化空気を一対の栽培に送り、その中で植物を栽培し、両室での植物の被害や生育の差から大気汚染の影響を把握する方法として、空気浄化試験法が確立している。大気汚染に対し感受性の高い蘚苔類を材料として栽培を行えば、栽培装置を小型化できる。既に、TAODA(1973)は空気浄化試験法による小型の蘚苔類栽培装置を作成し、蘚苔類を用いた大気汚染の影響測定装置という意味でブリオメーター(Bryometer)と名付けている。しかし、この装置の有効性は野外で十分検討されていない。
そのため、筆者は、この装置を工業地帯周辺に配置し、大気汚染の影響を測定する配置法と、特定の地点で継続的に測定を行う連続測定法を開発し、有効性を検討した。なお、ブリオメーターの配置地点では、大気汚染の一指標である雨水のpH値と電気伝導度を測定する目的で、同時に雨水も採取した。測定にあたって実験材料として、ゼニゴケの無性芽を用いた。測定終了後、大気の植物に対する毒性の強さ(大気の植物毒性度)を、両栽培室での無性芽の長さの生長比(非浄化室/浄化室)として求めた。
1975年に9地点、1976年に12地点で行った配置法の結果、大気の植物毒性度は、鹿島港入口周辺とその南西方向で大きい傾向を示した。雨水のpH値及び電気伝導度も同様の傾向を示した。また大気の植物毒性度と二酸化硫黄、オキシダント、一酸化窒素、二酸化窒素日最高濃度の合計値との相関を求めたところ、両者は、1975年が危険率5%、1976年が危険率1%の有意な相関を示した。
次に、1977年から1979年の3年間、鹿島港入口南西8キロメートルのP地点と北西60キロメートルのC地点で、毎年6月から10月に連続測定を行った結果、両地点での大気の植物毒性度の差は毎年減少した。この結果、工業地帯周辺では、この3年間に、大気汚染が植物に及ぼす毒性が確実に低下したことを明らかにできた。
以上の結果から、ブリオメーターの配置法による測定を行えば、大気の植物毒性度の地域差を把握でき、連続測定法を行えば、大気の植物毒性度の経時的な変化を把握できることが明らかになり、ブリオメーターの有効性が確認された。
3.2空気浄化試験法による樹木の栽培
調査地域でのブリオメーターによる測定から、蘚苔類を材料とした空気浄化試験法による栽培によって、大気汚染の影響が適切に評価できることが明らかになった。そこで、樹木を材料とした空気浄化試験法による栽培を行った場合にも、植物計として利用可能か否かを検討した。
1976年7月30日から8月25日までの1ヵ月間、鹿島港入口の南西8キロメートル地点で、ポプラ、釜淵のさし木苗を材料に、空気浄化試験法による栽培を行った。その結果、非浄化室では、浄化室に比べ、葉の落葉率が26倍も大きく、葉に顕著な変色が認められた。また栽培終了後の植物体重量は、非浄化室が浄化室に比べ根の重量が少なく、全体の重量は浄化室の90%にすぎなかった。以上の結果、樹木を材料とした空気浄化試験法による栽培もひとつの植物計として利用できることが明らかになった。しかし、実験材料の確保、栽培装置の維持などの点で、ブリオメーターのように多数地点に配置したり、長期間の連続測定を行うことが難しいことを指摘した。
4.植物指標による影響評価
本章では、工業地帯周辺に生育するアカマツ、クロマツを対象に、以下に示す4種類の植物指標による方法で、大気汚染の樹木に対する影響評価が可能か否かを検討した。
4.1ソフトX線を利用したアカマツ年輪構造解析に基づく生長低下の評価
森林の中の樹木の生長は、いろいろな要因により影響され、木部の構造は過去の生長の変動を反映する。そのため、大気汚染が原因で生じた生長低下も、木部構造の変動の中に記録される。従来、大気汚染に伴う樹木の生長低下は、年輪幅の測定により把握されてきた。他方、木部構造解析のため、近年ソフトX線を利用した年輪構造解析法が確立され、年輪幅と同時に年輪内の密度の変動が把握できるようになった。しかし、汚染地帯に生育する樹木を対象に、この解析法で多数の試料を体系的に解析した例はなく、この解析法が大気汚染の樹木に及ぼす影響を評価する上で、有効か否か十分明らかにされていない。
そのため、筆者はアカマツを対象に、この解析法の有効性を検討した。試料は工場操業開始後、10年経過した1980年1月に、鹿島港からの距離と方向の異なる15林分で、1林分10本のアカマツから成長錐により採取した。アカマツ着葉量の経年変化が観察されている典型的な被害木の年輪構造を解析した結果、着葉量の最も減少した1973年から、着葉量の回復していく1977年までの間、年輪幅が狭く、同時に年輪内の最大密度が顕著に減少し、最小密度が若干上昇していることが明らかになった。しかし、年輪幅は、工場操業前にも低下を示していた。そのため、工業地帯から最も遠く汚染の影響のないA地点の試料について、年輪構造解析結果と気象条件との相関を求めた。その結果、A地点の年輪幅は前年の降水量と危険率10%以下の相関を示し、変動係数も大きかった。それに対し、最大密度と最小密度の差は変動係数が小さく、気象要因との相関が認められなかった。以上から、大気汚染が年輪構造に及ぼす影響は、年輪幅に比べ、最大密度と最小密度の差の低下として、特徴的に現れることが明らかになった。そのため、工場操業前5年間に対する操業後10年間の最大密度と最小密度の差を相対値として求め、工業地帯周辺の10地点で比較した結果、港の南西方向の地点で顕著な減少が認められた。この10地点について、大気汚染の程度と年輪構造の変化との相関を求めると、年輪幅は大気汚染の程度と相関が認められないが、最大密度と最小密度の差は、二酸化硫黄、オキシダント、一酸化窒素、二酸化窒素日最高濃度の合計値との間に危険率5%以下の有意な相関が認められた。
以上の結果から、年輪内の密度の変化を把握できるソフトX線による年輪構造解析は、大気汚染が樹木の生長低下に及ぼす影響を評価する上で、すぐれた評価法であることが明らかになった。
4.2クロマツ樹皮水抽出物の電気伝導度測定による降下ばいじん及び二酸化硫黄の影響評価
大気汚染影響下では、針葉樹の樹皮に電解質が蓄積するため、樹皮水抽出物の電気伝導度を測定し、二酸化硫黄及び降下ばいじんの影響を判定する方法が欧州の内陸で用いられている。しかし、臨海工業地帯では潮風の影響が大きく、この方法をそのまま適用できない。そのため、筆者は潮風に基づく電気伝導度の推定法を新たに開発し、臨海工業地帯において二酸化硫黄及び降下ばいじんの影響評価が可能か否か検討した。
調査地域において試料を採取し、測定した結果、潮風に基づく電気伝導度が適確に把握できた。また、二酸化硫黄汚染を反映する硫酸塩に基づく電気伝導度が汚染源に近く、汚染源に面した丘の上等、特定の地点で高いこと、あるいは、ちり・ほこりに基づく電気伝導度が工業地帯周辺と砂丘地帯で高いことが確認できた。
以上の結果から、筆者が改良を加えた樹皮水抽出物の測定方法は、臨海工業地帯においても地形的に二酸化硫黄汚染の影響を受けやすい林分を区別できる有効な影響評価法であることが明らかになった。
4.3針葉煮沸液の濁度、電気伝導度測定に基づく、針葉の衰退程度の評価
針葉の衰退程度を判定する手段として、ヨーロッパトウヒ、ヨーロッパアカマツに対して用いられている針葉煮沸液の濁度、電気伝導度の測定が、アカマツ、クロマツにも適用可能か否か検討した。
測定の結果、針葉煮沸液の濁度は汚染地と対照地で差が少なく、電気伝導度は両者に差が認められた。そのため、針葉煮沸液の濁度に比べ、電気伝導度がアカマツ、クロマツ針葉の衰退程度の測定に適していることが明らかになった。
4.4針葉中カロテン含有量測定に基づく針葉の生理的変化の評価
酸化分解を受けやすい針葉中カロテン含有量を分析することにより、大気汚染による針葉の生理的変化が把握できるか否か検討した。
汚染程度が低下した1978年9月にクロマツ針葉を採取し、α-及びβ-カロテンの量を測定したところ、砂丘未熟土壌という立地条件による影響が大きいことが明らかになった。そのため、クロマツの場合、針葉中カロテン含有量の分析から低濃度の大気汚染の影響を判定できないことが明らかになった。
5.総合考察
本研究で検討した各方法の利用可能性を整理し、各方法の長所及び短所を明らかにした。また、大気汚染測定結果が比較的完備している二酸化硫黄を対象にして、測定年あるいは測定地点ごとの二酸化硫黄日最高濃度の年平均値と測定結果を対比した。その結果、30ppb以上の場合、樹皮水抽出物の電気伝導度測定が、25ppb以上の場合、針葉中硫黄含有量の分析が、20ppb以上の場合、ソフトX線を利用したアカマツ年輪構造解析、ポプラさし木苗の空気浄化試験法による栽培及び針葉煮沸液の電気伝導度測定が、10ppb以上の場合、ブリオメーターによる測定が適用可能であることが明らかになった。そのため、二酸化硫黄日最高濃度の年平均値が、10ppb以上と比較的低く、他の汚染物質が関与した複合的な汚染状況では、植物の生長低下の評価を基礎としたブリオメーターによる測定とソフトX線を利用した年輪構造解析を併用することが、適確な評価を行うために必要なことを明らかにした。
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